エッセイ

「かわいそうに」と言わないで。

生まれてから今まで、私は幸せだった。きっとこれからも幸せになれるだろうと、根拠のない自信がある。

その自信は、母が私のことを「すごいねぇ」「なんでもできるねぇ」と褒めて褒めて育ててくれたおかげで、むくむくと丈夫に育ってきたものなんだろうと思う。甘やかされすぎだと言われたこともあるけど、その甘やかしがなければ、私は私のことを嫌いになってしまったかもしれない。

すぐダラけて、わがままで、根性がなくて、人のことをすぐ羨む。欠点を数えればきりがなく、中身も外見も、できるなら直したいところでいっぱいだ。

それでも、私は私が大好きだ。欠点をまるっと含めて自分のことを愛しているし、人から愛される価値があると思っている。自分のことが好きだから人にも素直に好きだと言えるし、人に好きだと言える自分がうれしくてもっと自分を好きになる。

そんな私を、私として育ててくれた母。かわいくて天然でたくさん褒めてくれた母。私のことをかわいがり、甘やかしてくれた母。

そんな母が病気になった。統合失調症という精神疾患で、今でも入退院を繰り返している。

それでも母は母のままで、私には変わらずやさしく、歩くときは手を繋ごうとしてくる。私はもう27歳で、親と手を繋ぐことに若干の照れはあるものの、子ども扱いされることがなんだかうれしくて、母の手をそっと握り返す。

母が病気になっても、私は幸せのままだった。

悲しくて苦しくてたくさん泣いたこともあったけど、不幸にはならなかった。今までの母の愛は私の中にたっぷり溜まっていて、母の病気くらいじゃ空っぽになったりはしないのだ。病気になったあとも、母の愛は会うたびにとぽとぽと注がれていくから、むしろ未だに増えている。

だから、周りの人が私に対して言う、「かわいそう」だけは、たまらなく嫌だった。

私の祖父は、母が病気になってからよく私に「かわいそうに」と言った。母方の祖父は堅物で、母とは仲が悪かった。

「かわいそうになぁ」
「子どもを放っぽり出して」
「お母さんがいればなぁ」

その言葉は、私を慰めているようで、私をずぶずぶと「かわいそう」の沼に沈めているだけだった。言われるたびに、本当にかわいそうな子になる気がした。

お母さんは悪くない、別にかわいそうじゃない。そう言ったところで、祖父には強がりに聞こえたようだ。あまり言い返すと「お母さんに似て理屈っぽいのぉ」と嫌味が始まるので、私はかわいそうと言われるたびになんとか別のことを考えようと、頭の中でおもしろかった漫画や友達との会話をぐるぐると巡らせた。

かわいそうの言葉は、言われた相手を「お前は不幸だ」と無理矢理に思わせる。本人がそう思っていなくても、何回も言われると「そうか、私は不幸だったのか」と勘違いをしそうになる。

私は幸せだったはずなのに、かわいそうの言葉だけで、両手いっぱいに持っていたはずの幸せがするすると溢れていくような気がした。母との幸せだった思い出も、これから作っていくはずの思い出も、全部がもうないんだよと言われているような気がした。

そんなことは絶対にない。誰がなんと言おうと私は幸せで、他人に私の幸せを否定する権利はないのだ。かわいそうだと言われて、相手が望むようなかわいそうな子を演じる必要もない。

同じように、私も他の人の幸せを否定できない。誰もが自分の幸せを主張できるし、他の誰かを不幸だと言うこともできない。できないはずなのに、つい言ってしまう。祖父と同じように、私もつい言ってしまいそうになる。

あの人はいつも怒っていてかわいそう。
自慢ばかりでかわいそう。

かわいそうと言うときの私は、相手のことを自分よりも不幸だと思っている。自覚はなくても。相手が不幸だと思うから、かわいそうという言葉が自然と出てくる。

それってなんて傲慢なんだ。私は何様だ。他人の幸せをおまえが決めるな。自分が見えている相手が、その人のすべてだと思うことがおかしい。幸せの基準だって人それぞれなのに、自分だけが正しいと思っているの?

この言葉が、私にかわいそうと言う祖父にも、他人にかわいそうと言う誰かにも、言われてしまった誰かにも、つい言ってしまう私にも。

みんなに、伝わるといいなぁと思う。