心の話

朝起きたらお母さんがいなかった。「統合失調症」を知った15歳。

いつか書きたいなと思ってた家族の話。意外と早かったそのいつか。ぼちぼち書いていきたいと思います。

気づけなかった母のSOS

ざっくり私の家族を説明します。

  • 両親は私が小学2年生のときに離婚
  • 自営業の父。野菜が嫌い。
  • 天然な母。料理が上手。
  • 3歳上の姉。やさしい。

離婚後は、しばらく母と姉と3人暮らし。今思い返すと、病気が発覚する前から、母の行動は少しおかしかったです。

幻聴に苦しむ母

私が小学4年生くらいのとき。いきなり、母に「声が出ない」と紙に書いて見せられたことがありました。「"いなくならないで"と言ってくれないと連れていかれる」とも。

そのとき私が母に言ったのは、「はぁ?」だけ。"いなくならないで"なんて絶対言ってやらないと思ったし、理解もできませんでした。いや、理解しようともしなかったんです。

その頃の私はまだまだ子どもで、自分のお母さんには自分が理解できる範囲の中にいてほしかったから。理解できないことからは、いつも目を背けました。

「助けて」と筆談で懇願する母を、私は無視して、助けたのは姉でした。わんわん泣きながら、母に「いなくならないで」叫ぶ姉。あの光景、今でもはっきり覚えています。

床に横たわる母は、姉の言葉にゆっくり体を起こして「ありがとう。お姉ちゃんのおかげで戻ってこれたよ。本当にありがとう」と言いました。泣きながら抱き合う母と姉に、小学生の私は一言吐き捨てました。

「ばっかじゃないの」

被害妄想に苦しむ母

それからまたしばらく経って、夜中に警察がやってきたことがありました。2人組の警察官は、私と姉が寝ている部屋まで入ってきて、機械でなにかを調べていました。

私が眠っていると思っているのか、扉を開けたままの向こう側から、母と警察の会話が聞こえてきました。

「調べましたけど、特になにもないですよ」
「そんなはずないです!盗聴されてるんですよ、わかるんです」
「全部の部屋調べましたけどね、そんな反応はないんですよ」
「もっとちゃんと調べてください。あるはずなんです」
「いやぁ、そう言われてもねぇ...」

母は、自宅に盗聴器があると思っているらしい。母がそう思えば、もう母の頭の中では、そう決まってしまうらしい。

結局盗聴器はなかったので、警察は帰っていきました。母はやっぱり納得できないらしく、ぶつぶつなにかを言っていました。

私は布団にくるまりながら、またぼそっと呟きました。

「ばっかみたい」

反抗期の私と、ムードメーカーだった姉

しばらく母と姉と私で3人暮らしを続けていたけど、私が小学校高学年くらいのときに、母方の祖父母の家に転がり込みました。

今思うと、家賃が払えなくなったのかなと思います。子どもを2人抱えたシングルマザーが生きていく過酷さを、子どもの私はよくわかっていませんでした。

祖父は、いわゆる九州男児。「おい!茶ァ!」と祖母に言う姿を覚えています。私は、そんな横暴な祖父があまり好きではありませんでした。孫のことはかわいいらしく、姉や私のことは甘やかしてくれたと思います。

ただ、母と祖父の関係はあまりよくありませんでした。  

母と祖父が会話をしている姿はほとんど覚えていないし、そもそも祖父がいるときは母は部屋にこもりきり。祖父は会社の社長で土日しか家に帰ってこなかったから、母にとってはラッキーだったと思います。平日は楽しそうに、キッチンでお菓子を作ったりしていました。

最強に気まずいのは、土日の夕食。

祖父が帰宅すると、母は無口になります。祖母は喫茶店をやっていたから、夕食の時間はいつもお店にいました。そして、その頃の私は反抗期の真っ最中。祖父と母の間を取り持つなんて絶対に嫌でした。

祖父、母、姉、私の4人の夕食。

まるでお通夜みたいな夕食を、いつも救ってくれたのが姉でした。

「これおいしいね〜!」
「おかわりしよーっと」
「このお肉やわらかい!」

場を盛り上げてくれるのはいつも姉。姉が楽しそうだと、祖父も楽しそうに笑います。姉と祖父が会話をしていれば、母も心なしかほっとしているように見えました。

私はいつも、会話に参加せずにテレビに夢中。というより、夢中なフリをしていました。姉だけが、無言になりそうな夕食を救ってくれていました。

無言が気まずいって、家族としてどうなんだろう。それでも、あの頃の夕食は本当に苦しかったなぁ。なんなら食べなくてもいいよと思っていました。

けれどそれは許されなかったから、いつも私は姉に頼って。姉がいれば、うちは大丈夫だろうと甘えていました。

我が家の支えだった姉の消失

消失と言っても、大学進学のために1人暮らしを始めただけ。姉は、頭がよくてがんばり屋さん。こつこつ勉強して国立大学に受かり、そして家から出ていきました。

大学合格、おめでたいことです。私だって姉が大学生活を楽しんでくれればいいと思っていたし、実際たまに会う姉は本当に楽しそうにしていました。

ただ、支えをなくした我が家は一気に崩れました。

姉は知りません。あの頃の我が家に、まるで会話がなかったことを。

土日に祖父が帰ってきた瞬間に、家の中の空気がぴりっと張り詰めます。夕食に呼ばれるたびに、いつもげんなりしました。誰もなにも話さなくなった夕食。せめてもの音としてテレビをつけて、夢中で見てますと視線でアピールしました。

無言の我が家。

それでもその頃は、無言のまま時間は流れていくと思っていました。

母の心は、とっくに壊れていたのに。

朝起きたらお母さんがいなかった

いつものように寝て、いつものように起きる。まるでいつもの朝でした。

いつもと違うのは、もう家のどこにも母がいなかったこと。

「夜中にね、入院したの。連れてってもらったんだよ」

部屋から出た瞬間、祖母が私に言いました。

私がいつものように寝ているときに、母は連れていかれたらしい。そのまま入院したらしい。入院した先は、どうやら精神病棟らしい。

母の病気は、統合失調症と言うらしい。しばらく入院するからねと、祖母は言いました。

「あっそ」とだけ、私は返しました。

15歳の一人暮らしがスタート

母が入院してから数ヶ月後、祖父母はいきなり家を売却。東京都内に住んでいたのに、いきなり「地方に引っ越すからね」と言われました。どうやら、私も連れていくつもりらしい。

そんなの、冗談じゃない。

父からは、一緒に暮らそうと言われました。姉からも、私と一緒に住む?と言われました。

全部嫌でした。絶対、なにがなんでも誰とも住んでやるもんかと。私は誰とも住まない。一人暮らしをさせて。今住んでいる、この駅から私は絶対に離れない!!

泣いてわめいて、駄々をこねて。

母が家からいなくなって数ヶ月後。父からの援助を受けて、15歳の一人暮らしがスタートしました

今考えても、一人暮らしをさせてくれたことはありがたかったなと思います。あの頃の私はきっと、誰と暮らしてもだめになったと思うから。

祖父母と暮らしても、父と暮らしても、姉と暮らしても。あの頃の私には、1人になる時間が必要でした。

母が全部やっていた家事を、自分でやるようになりました。気まずい空気だった家も、今は自分1人だけ。

時間はたっぷりありました。反抗期も、あたる相手がいなきゃ終わるしかない。

少しずつ、理解していました。

母は病気で、もう元気だった母じゃなくて、心が疲れてしまっているんだって。私が認めなくったって、それは事実で。

お母さんが病気だと認めるのが怖かった

ある日、私はとことん弱っていました。頭がフラフラで気持ち悪くて、便器に顔を突っ込んでひたすら吐きました。体は熱くて心臓がばくばくして、目の前がぐるぐる揺れていました。横には友達がいて、私が吐いている間ずっと、背中をさすってくれていました。

吐いて吐いて吐いて、なにも出るものがなくなって、それでも気持ち悪くて、頭がぐちゃぐちゃになりました。涙が止まらなくて、とてつもなく悲しくて、苦しい。  

今でも覚えています。吐きながら、私は謝っていました。

何度も何度も、「ごめんなさい」と言っては吐きました。泣きながら謝って、吐いて、また謝って。

「お母さんごめんなさい」って、母が入院して初めて言いました。

弱り切った心じゃ、もう強がることもできなかったんだと思います。一人暮らしを始めて、半年以上は経っている日の出来事でした。

最初のごめんなさいからは、もう止まりませんでした。ダムが崩壊したように、私はごめんなさいを繰り返しました。

いつも反抗期でごめんなさい。守ってあげられなくてごめんなさい。助けてって言ってたのに、見捨ててごめんなさい。

でも、私は少し怒ってもいたんです。なんで置いてったのって。あんな家に、どうして私だけ残していったのって。

1人だけ出て行くなんてずるい。私を置いていくなんて。私になんにも言わずに、勝手に1人で行っちゃうなんて。

私だけあの家に置いてけぼりにして、そんなの私を捨てたってことじゃないの!!!

色々な感情が、ぐわっと湧き上がっては消えていきました。感情が爆発して、わんわん泣きながら、げえげえ吐きながら、言葉にならない言葉が口から漏れていきました。

それでも、ちゃんとわかっていました。

お母さんが私のこと大好きだってことも、だから私に助けを求めてたってことも。わかっているから、私のその怒りがただのやつあたりってことも、気づいていました。

ずっと前から言ってたのに、あれだけサインを出してたのに、気づいてあげられなくてごめんなさい。優しくしてあげられなくてごめんなさい。

私、お母さんが病気だって、ただ認めたくなかっただけなの。  

私はいつも愛されていた。同じくらい、私も愛してあげればよかった

母が入院しても素知らぬ顔をしていたのも、母と住んだ駅から離れたくなかったのも、認めてしまったら全部本当になってしまう気がしていたから。

私が認めなくったって、母がとっくに病気になっていたことも、私のそばからいなくなってしまったことも、母の病気にはきっと私の反抗期も関係していることも、全部事実だったのに。

私は最初から、全部を受け入れるべきでした。

子どもだったと言ってしまえば簡単だけど、それでも、「お母さん大丈夫?」の一言をかけてあげるべきでした。

母がいなくなったあの日に、まずはどこの病院かを聞くべきでした。いつ会えるのかと、祖母に詰め寄るべきでした。

全部、できませんでした。

私はただ、全部知らないふりをして、「あっそ」と心を閉じただけ。「ばっかじゃないの」と、見て見ぬふりをしていただけ。

母は、私のことも姉のことも平等に愛してくれました。手作りのお菓子を食べさせてくれて、たくさんたくさん遊んでくれました。いつもやさしかった母。母はいつもにこにこ笑っていて、綺麗でした。

髪はふわふわと柔らかくて、少し天然で、『美人でやさしいお母さん』のイメージにぴったりの人。

やさしいからこそ、疲れてしまったんだと思います。

そんなやさしい人を、突き放すべきじゃなかったね。私のことを愛してくれたように、愛してあげればよかったね。

「ごめんなさい」に「なにが?」で返すお母さんが大好きです

まず言っておきますが、母は生きてます。体は健康です。心が疲れてしまっただけ。

停滞期と回復期を行ったり来たりはするけれど、調子のいいときは一緒にご飯に行ったりもします。反抗期を終えて、私と母はとても仲よくなったと思います。

ずっと言えなかった言葉を、少し前に本人に言いました。

正直、怖い気持ちもありました。「そうだよ全部あんたのせいで!」と言われたらと思うと、心臓がぎゅうっとなりました。

それでも言わなくちゃと思って、ある日母に言ってみました。

「お母さん、あのね」
「なーにー?」
「......ごめんね」
「えっ?なにが?」
「え...私、反抗期で...色々ごめんなさい」
「えー!?何言ってるのー!反抗期なんてなかったよー!!」

母の後ろで、姉が「えぇええええ」と叫ぶ声が聞こえました。「あったよ!反抗期あったよ!この子あったじゃんすごかったじゃん!」となんかめちゃめちゃ言っている姉。ごめん。

「そうかなぁ〜とってもいい子だったよ??」

すうっと、肩の力が抜けました。姉の「まじかよ...」という顔が見えます。ごめん。私もまじかよって思う。同じ。

そうだ、母はこういう人でした。私のちっちゃな反抗を、まるっと受け止めて、なにもなかったかのように笑う人。

正直、母の本心は母にしかわからないから。その言葉を間に受けて、「そうか私っていつもいい子だったのか」と思うことはしません。

母がとうとうどうにもならなくなったときに、なにもできなかったのは確かで。母本人は言わないけど、私の反抗期が母の心を傷つけていたのは事実だと思うから。

統合失調症は、治らない病気と言われることもありますが、多くの患者さんが回復しています。もちろん、いつか母も治ってほしいとは思っています。

それでも、病気になってもやっぱり母は母のままで。

やさしいところも、ちょっと天然なところも変わらない母のまま。薬のせいでちょっと太ってしまったけど、「副作用なの〜」と言いながらチョコをぱくぱく食べちゃってることもバレバレ。

そんな愛おしい母のことを、『病気になってしまったお母さん』ではなく、『ただの私のお母さん』として、仲よくしていきたいなと思っています。

あのとき助けてあげられなかったから、今は、私ができる範囲で助けてあげたいなとも。できないことも、もちろんたくさんあるけれど。

 

母は料理が上手です。編み物もできます。母に愛されたおかげで、私はすくすくと健康に育ちました。たくさん褒められて育ったおかげで、自分を卑下することもなく、たまに自信過剰なくらいです。

母は本が大好きです。母のおかげで、私も無事に本好きに育ちました。

そして、母は昔ライターでした。小説家として何冊か本も出しています。

娘も今、ライターとしてなんとかやってるよ。まだまだ駆け出しだけどそれなりに楽しいよ。

小説を書き上げたお母さんに比べると、私はまだまだですね。いつか、上手な文章の書き方を教えてほしいです。

娘より。